ゆうゆう誌No.193 ( 2012 / 9月号)


ゆうゆうひろば(読者のページ)に投稿しました。


岡本弥太詩集
 
 この詩集は、高知県文教協会から(昭和38年5月1日)に刊行されましたが、現在では入手できない貴重な詩集です。日本未来派同人であり、奈良県桜井市にある「真言宗・磐余山・東光寺」の御住職である山内宥厳師が、大切にして居られるこの詩集を、今日では岡本弥太の名前を知る人もまれであり、詩の読者には、触れる機会がないと想像されるので、多くの人に読んでもらうことを目的に入力して「東光寺」のホームページに掲載されました。

岡本弥太は1899年(明治32年)に生まれた土佐の近代詩確立の中心的詩人で、20歳頃より詩を書き始め、同人誌の発行、中央詩誌への作品発表、高知新聞詩壇の選者など県内の代表的詩人として活躍。生前唯一の詩集「瀧」が国内詩壇に高い評価を受け、一躍その名前を知られる。生涯高い詩精神を貫き、人生の深奥に迫る深い思索と、緊張感のある格調の高い詩を書いた。

1942年(昭和17年)に死去されています。彼の生地、高知県香美郡岸本町月見山麓に「岡本弥太の詩碑」が昭和23年(1948年)7月17日に建立されました。設計は弥太旧知の彫刻家、島村治文氏。書は高村光太郎氏。詩は「白牡丹図」を選びました。

 白い牡丹の花を
 捧げるもの
 剣を差して急ぐもの
 
 日の光青くはてなく
 このみちを
 たれもかへらぬ

詳細については「東光寺のホームページ」
岡本弥太関連のリンクをご覧ください。
http://www.begin.or.jp/ytokoji/

ゆうゆう誌No.192 ( 2012 / 6月号)


ゆうゆうひろば(読者のページ)に投稿しました。

さ く ら  

「桜」      岡本弥太 (土佐の詩人)

おたっしゃでゐて下さい

そんな風にしか云へないことばが
さくらの花のちるみちの
親しい人たちと私との間にあった
そのことばに
ありあまる人の世の大きな夕日や涙がわいてきた

私は
いまその日の深閑と照るさくらの花のちる岐路に立ってゐる
おたっしゃでゐて下さい
私はその路端のさくらの花に話しかける

さくらは
日の光に美しくそよいでゐる

* * *

桜の花の時期に思い出される詩です。
17年間の日本暮らしを終えてベルギーに帰国したカトリックの神父さんは
京都の教会が長く、古都の桜を訪ねる手助けをしてくれました。そして私の
パソコンにskypeという無料通話ソフトを置土産に日本を去りました。
20年間腰痛治療・健康維持の為に楽健法を受けに通った桜井市にある
東光寺の御住職からは限りない知識を頂きました。
終戦後満州から引き揚げてきて、思い出を語り、励まし合って来た大切な
友人は、痛みに耐えながら米寿を迎えられました。
15年前に中国語の勉強を共にした友人の誘いがあり、桜の花の下で思い出
を語る幸せを味わいました。花陰に佇み、心優しい人々との出会いを懐かしく
思い出しました。
痛みに苦しんでいる友、優しいベルギーの神父さん、そして豊富な知識を
お持ちの御住職に 「おたっしゃでゐて下さい」と、心からのねがいを、
さくらの花に語りかけるのでした。

ゆうゆう誌 No.191 (2012 / 3月号)

ゆうゆうひろば(読者のページ)に投稿しました。

           山 の 消 息

 ゆうゆう誌2011年12月号を入手して『寧日雑録「山の消息」の哀訴を』“林 望”
を読み衝撃を受けました。「大木敦夫の詩集」それは長年私の心から消える事の無い響き。
得も言われぬ感動でした。林 望先生の味わい深い文章は、惹きつけて止まないものでした。
『戦争末期には、肉体的にも精神的にも疲れ果てて、ただ自然とキリスト者としての信仰に
救いを求め、寂しい田園に蟄居して、明け暮れていた詩人大木敦夫の「山の消息」の哀訴を』

また詩集「山の消息」の書物としての姿の描写に、読みたい思いに駆られました。
古書店めぐりも叶わぬ身体には有難いインターネット検索があり、幸運にも「山の消息」
が私の下に届きました。読む時間が自分にどれだけ残っているか、熟読にかける時間は
長いほど有難いのですが、赤く焼けた詩集をいとおしみながら焦燥を感じるのです。

 平成2年に入居した際「ゆうゆうの里大阪通信・みおつくし」に紹介された冒頭に、
大木敦夫「大東亜戦争詩集」
「海原にありて歌へる」
云う勿れ 君よ別れを
世の常を また生き死にを
海原の はるけき果てに
今やはた 何をか言はむ 
……
この詩集に出会った17歳の頃の感動を心に抱き続けている……

そんな私も「ゆうゆうの里」での生活が20年を過ぎました。
「大東亜戦争詩集」の大木敦夫は、私の心から消えることは有りませんが
「山の消息」の大木敦夫は静かに、かなしく語りかけてくれるのです。
残された人生の最後に出会ったのが、忘れ得ぬ詩人・大木敦夫の詩集
「山の消息」であったことは、私にとって何より嬉しく、有難い贈り物でした。

母の遺してくれたもの

      “母の遺してくれたもの”
                                2012年8月05日
 
 昨日来の関節痛に耐えがたくプレドニン錠を服用、漸く痛みが薄らぎ床を離れました。
どうか暫く痛みが来ませんように。…

 母は1970年(昭和45年)4月4日に死去(享年66才)しました。1945年(昭和20年)終戦
により、中国から一家9人が引き揚げてきて、つてを求めては戦災に遭った祖国日本の各
地を移住しました。引き揚げ後、母にとっての25年は痛みに耐えながらの苦しみの人生で
あったことと思います。

 家族全てが生きるために必死で、母の健康に気を遣う余裕もなかったのが実情でした。
母が度々倒れるようになり、高知県の南国海岸より10㎞も離れた病院に担ぎ込まれても、
病名は高血圧で、原因は判らず、働けるようになれば無理をしていたようです。
高知県を離れ下関市に移り住んで居た私は、母に山口大学医学部付属病院の受診を勧め、
思いがけぬ病気が見つかりました。腎臓結石とのことで、手術の為開腹をしたところ、
嚢胞腎が発生していることが判り、治療の方法が無いとのことでした。
最後は昭和44年11月より入院治療を続け、病院で息を引き取りました。

 私も右腎盂結石で結石除去手術を行い、30年近く経って左尿管結石の除去手術をしました。
結石症は遺伝性のものであると医師の診断でした。以後兆候もなく、母の亡くなった年令に
なった私は定年退職で終の住処を「大阪ゆうゆうの里」に定めました。

 高齢となって、手首、足踝、膝などに痛みや腫れが起こるようになり、湿布や鎮痛剤の服用
をしていましたが、度々起こるので整形外科の専門医の診察を受けたところ、結石が原因で
病名は「疑似痛風」と診断されました。原因は遺伝体質とのことでした。 
以後、何処かの関節を狙って、突然痛みが訪れるのです。整形外科医は局部に注射をして、
内服薬プレドニン錠(ステロイド剤)を処方して下さいました。
以後、突然の痛みに備えてプレドニン錠を常備しているのです。母が遺してくれた遺伝体質に、
終生つきあってゆく定めだと、納得の日々を過ごして居る私です。
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